読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

iwanmayatakaのファイル

つぶやいたこと(https://twitter.com/IwanMayataka)や何かの機会に書いたことの中で、自分のための記録用及び、他の方にも何かの役に立ちそうな内容をここに置いています。

法華経についてのプロポ

 
アランのプロポ風


法華経には内容がないと不満を持つ人が多いのはよく分かる。それは人間や世界の構造に関する合理的な記述が何も無いからだ。「縁起とはなんぞや。空とはなんぞや」そういうものが何もない。ただ「永遠に救われることを信じて慈悲行を実行せよ、それを説くこの経典は凄いのだから」基本これだけだ。だが知的に優れた人間であるほど、単なる感情以上の、何かもっと確固たる根拠を求める傾向がある。特に出来れば椅子に座っていたい学者はそうだ。
 
だから証明、イエスが言うところの印が得られてからでなければ愛さないという人間はこの経典を前にして全部弾かれてしまう。だが過去の歴史において説かれてきたあらゆる教理が無常の中でほとんど全て否定されているか、あるいは意見の対立の中で責め苛まれていることを考えれば、証明などというものが尽く不安定な一時しのぎにしかなっていないのが冷厳な現実として理解できる。

このことを知って、そんな世界に生きている人間を肯定する気がなくなったというなら、空だろうが縁起だろうが、そもそもどんな教説を聞いても救われるはずはない。だがもし、このことを知っても尚、そんな風に存在している人間を愛することが出来るなら、この無常な世界そのもの、そしてそこから生まれくるどんな教説もその時その場所に応じて肯定されるだろう。法華経は、そういう根源的な経典だ。『万善同帰教』だとか『諸経の王』、『活の法門』と呼ばれてきた所以。人は理由もなく愛せるし、愛さなくてはならない。
 
ところがこのことが一番難しい。難信難解。知識で得られる根拠が無力だからだ。智慧第一のサーリプッタが及ばなかったのも頷ける。『カラマーゾフの兄弟』のイワンも同様だ。彼は愛するための根拠を求めた挙句、証拠があっても愛したくはないと自身の本心を暴露した。おそらくこの難所を突破できるのは、何の支えも無く、それでも一歩踏み込めば自ら道を見つけられるだろうと自分を信じること、自己を支え保つ、その勇気のみだ。