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iwanmayatakaのファイル

つぶやいたこと(https://twitter.com/IwanMayataka)や何かの機会に書いたことの中で、自分のための記録用及び、他の方にも何かの役に立ちそうな内容をここに置いています。

中村元の文体

角川ソフィア文庫から発売の中村元「ブッダ伝」。手軽に要約されていて良い。原始仏典の翻訳をいきなり読んだら、その言葉がどういう行動の目的で使われていたのか分かりづらい(例えば「生を捨てよ」等)この本は具体的な行動(生涯)を基軸に描いてあるので、釈尊の言葉の真意(思想)が伝わりやすい

番組用に口で説明できる範囲にまとめた原稿が元になっているので、それでこそ釈尊の言行がよく再現できてると思う。哲学専門の人から「中村元は一般向けに希釈しすぎている」という声を聞いたことあるが、思うに事実は逆で、釈尊の教えを再現するに必要な文体は、民衆の言葉であって哲学のそれではない

釈尊自身、自分では難解な書き言葉を残さず、平易な話言葉で教えを説いた。哲学臭くなってしまった時点で、似た意味に落ちつけたとしても、果たす機能に差が出るから、結果として別物にならざるをえず、釈尊の思想からは遠ざかる。パスカルの言う「子供らしさについて、子供らしく語る人は少ない」。

小林秀雄が「意は似せやすく、形は似せがたい」と指摘しているが、釈尊のような人の偉大さは、民衆的な言葉に踏みとどまって、彼らと共にただちに行動したところにあると思う。思想が伝えられる時、その言葉が発せられた状況を起こした行動の形が(文章における文体のように)固有の働きとして機能する

たぶん論語孔子新約聖書のイエスもそうで、時代を動かすほどたくさんの人に浸透した思想が、哲学者の間だけで通用するような難解な文体であったはずがない。

変に思うのが、中村元的な文体を軽蔑する専門の哲学者や仏教者を名乗る人も、原始仏典や新約の平易な文章だけは後生大事に崇め奉って、それから自分流に似ても似つかない哲学語にあれこれ分解して並べ直しては、これが真の仏教だみたいに語って、オリジナルに近い平易な文体を軽蔑してるのを見た時。