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つぶやいたこと(https://twitter.com/IwanMayataka)や何かの機会に書いたことの中で、自分の記録用と、他の方にも何かの役に立ちそうな内容をここに置いています。

最も人格の立派だった哲学者はスピノザ ラッセル談

スピノザの偉大さを簡単に伝える抜粋集

 

(『西洋哲学史』 近世哲学 スピノザ 著 バートランド・ラッセル 訳 市井三郎)より

 

 スピノーザは偉大な哲学者たちのうちで、もっとも人格高邁でもっとも愛すべき人である。知的には彼を凌駕したひとびとはいるが、倫理的に至高の位置を占めるのは彼である。その自然な帰結として、彼はその生前ならびに死後の一世紀にわたり、驚くべき邪悪な人間と見なされていた。ユダヤ人として生まれながら、ユダヤ教徒たちは彼を破門に処したのであり、キリスト教徒たちも同様の嫌悪を示した。またスピノーザの全哲学が神の観念によって支配されているにもかかわらず、正統教義を信奉するひとびとは、彼を無神論のかどで非難した。

 スピノーザに多くを負っていたライプニッツは、その負い目を隠して、彼を賞賛する言葉を一語も発しないように用心した。そのユダヤ人の異端者[訳注・スピノーザのこと]とどの程度まで個人的につきあっていたか、ということに関してウソをつくほど、ライプニッツはひどく気をくばったのである。

 スピノーザの生涯はきわめて素朴である。彼の家族はスペインあるいはポルトガルから、異端審問所を逃れるためにオランダへ移住していた。彼自身はユダヤ教の学問で教育を受けたのだが、正統派でありつづけることが不可能であると悟った。懐疑を公言しなければ年に1000フロリンやる、という申し出を受けたが、それを拒否すると彼を暗殺しようという企てがなされた。その試みが失敗に終わった時、スピノーザは「申命記」にあるすべての呪いをかけられ、さらにエリシャが子供たちに発した呪いをもかけられたのである。エリシャの場合には、子供たちは牡熊によってひき裂かれたが、スピノーザの場合には一頭の牡熊も襲ってこなかった。彼は最初はアムステルダムで、次いでハーグで静かな暮らしをし、レンズを磨いて生計を立てた。彼の物質的欲望はきわめて少なく、また単純であり、生涯を通じて金銭に対するたぐいまれな無関心を示した。彼を知る少数のひとびとは、彼の説く諸原理を否定している場合でさえ、彼を愛したのである。慣例的に自由主義的な傾向をもつオランダ政府は、神学上の事柄に関するスピノーザの諸意見を寛容した。もっとも一度は、彼がオランジュ公家に抗してデ・ウィット家の味方をしたために、政治的に不評を招いたことはある。四十三歳という壮年期に、彼は肺結核で死亡した。

(略)

 スピノーザの世界観は、人間を恐怖の圧政から解き放つ意図をもっている。「自由な人間は、死というものをもっとも軽視する。そして死ではなく、生について瞑想することがその人の知恵なのである。」スピノーザはこの格言にもっとも完全に従って生きた。その生涯最後の日に、彼はまったく平静を保ち、「ファイドン」に描かれたソクラテスのように高揚を示すことなく、他のどのような日にもやったと同じように、対談者が興味をもった事柄について静かに会話していたのである。他のある種の哲学者たちとはちがって、彼はみずからの諸教説を信じていたばかりではなく、それを実践した。非常な挑発行為があったにもかかわらず、彼の倫理学が断罪しているような興奮や怒りに彼がおちいったような時を、わたしはぜんぜん知らないのである。論争に際しても、彼は理性的で丁重であり、けっして問責するようなことなく、説得に全力を尽くすのだった。

 

 

(『スピノザに倣いて』 著 アラン 訳 神谷幹夫)より

 

 バルーフ・デ・スピノザ一六三二年十一月二四日、ポルトガル系ユダヤ人の家系に生まれた。両親は彼をラビ[ユダヤ教の教師]にしようとしたので、彼は高度の学問を修めると同時にヘブライ語ラテン語を学び、幾何学と自然学とを研究した。彼はデカルトの読書から啓発され、哲学の道に入ったのである。

 スピノザの生は賢者のそれであった。自由に思索するため、彼は手仕事で生活することを欲し、自分の時間の一部を光学機械用レンズを磨くのに費やしたのだ。プファルツ選挙侯がスピノザハイデルベルク大学の哲学教授職をあたえようとしたとき、彼はこう答えている。「まず第一に、もし青年の教育に専心しようとするなら、私は自分の哲学を続けることを断念しなければならないだろうと思います。他方、公認された宗教を撹乱する者であるように思われたくないために、このような思想の自由に私はどんな制限を加えねばならないのか存じません。なぜなら、宗教上の分裂は激しい宗教熱から出てくるというよりも、人間を駆り立てるさまざまな情念や、このうえもなく明確に言い表されたことでもゆがめ糾弾するのがつねである反駁心から、生じるからであります。私はそのことを、一人で孤独な生活をしているとき、すでに経験しましたので、もし私がそのような名誉ある地位にまで昇ったならば、さらに多くのことを恐れねばならないでありましょう」と。また彼は、おそらく同じような理由から、コンデがルイ一四世からもらってやろうとした年金を断ったのであろう。スピノザは隠遁生活をしていたにもかかわらず、その名声ははるか遠くまで広まっていたのが分かる。ライプニッツはイギリスからの帰途、スピノザを訪ねた。デ・ウィット兄弟の一人はスピノザの弟子であり友人であることを誇りとしていた。

 われわれはスピノザの伝記作者たちから、彼が純朴で善良な人間であったこと、ほんのわずかなもので生きたこと、そして健康に恵まれなかったにもかかわらず、幸福だったことを知っている。またわれわれは、とりわけその著『神学・政治論』によって、彼がオランダを深く愛していたこと、そして良心の自由と政治的自由を、もっとも大切な財産とみなしていたことを知っている。

 彼が無神論と非難されたのは、真の宗教の原理を求め、啓示を理性という自然の光によって置き換えようとしたからだ。トルコ人や異教徒について、「もし彼らが正義にたいする崇拝と隣人愛とを神に祈るなら、ムハンマドや信託を信じようとも、彼らは自己のうちにキリストの精神を有しており、救われていると思う」と書いた人を、どうして赦せるだろうか! このような非難にたいして、彼はただこう答える。「もし私を知っているなら、そうやすやすと私が無神論を教えているとは思わないであろう。なぜなら、無神論はすべてにまさって名誉と金とを求めるのがつねであるから。私が名誉と金を軽蔑していることは、すべての友人がよく知っているところである。」スピノザは、彼の宗教があかししているように、「真理」でないすべてのものから離れた、質素な単純な生活を営んでいたのがわかる。このようなあかしがなければ、率直に言って他のすべてのことは無価値のはずだ。名誉と金とをまだ追求している人間が神を知り、神を理解し愛していると信じられるか。誰も二人の主人に仕えることはできない。

 

 

(世界の名著 25スピノザライプニッツ 解説 著・下村虎太郎)より

 

ただ一度の激情

 スピノザはデ・ウィット(オランダ史上のペリクレスに擬せられる大政治家。スピノザとは互いに尊敬していた。暴民に虐殺される)の横死に慟哭し、民衆の暴虐に生涯ただ一度といわれる激情に身をまかせた。「汝ら野蛮人の中でももっとも陋劣なる者ども」という書き出しの声明文を凶行の現場にはりつけようとした。宿の主人は扉に錠をかけてかろうじてこれを止めた。自制心をとりもどした彼はある友人に言った。

「もしわれわれが大衆の激情の虜となり、みずから再起する力をもたないとしたら、知恵はわれわれにとって何に役立つのか」

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オリーブ色の顔した日常生活

 ハーグ時代のスピノザの日常を、伝記作者コレルスが伝えている。彼のつきあいと暮らしぶりとは、物静かなきりつめたものであった。自分の激情をおどろくほどによくやわらげることができた。人は、彼があまりに悲しんでいるところも、またあまりに喜んでいるところも、けっして見たことがない。自分の立腹や不機嫌をきわめてよく制御し、忍耐することができた。ただそれをあるしぐさか二、三の短いことばでほのめかし、自分の激情がたかまってくるのを恐れ、そこを立ち去るかするだけであった。

 とにかく日常のつきあいは親切で、愛想がよかった。宿の主婦や他の同居人が病気になるといつも、話しかけてなぐさめ、これは神様から課せられたあなた方の運命だからと説いて、しんぼうするように諭すことを怠らなかった。宿の子どもたちには、両親にたいして恭順であり、公の礼拝には出かけるように訓えた。あるとき、宿の主婦から、自分の宗教で幸福になれるかとたずねられたとき、彼は、彼女の宗教は十分であって、静かな信心深い生活をしさえすれば幸福になるためには何も他の宗教をもとめるにはおよばない、と答えた。

 彼は家にあって、何人をもわずらわせず、たいていのときは自室に静座していた。しかし研究に疲れると、よく階下へおりてきて、同居人たちと些細なできごとでもなんでも話し合った。

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 一六七七年二月二十一日、日曜日、スピノザは彼の屋根裏部屋で一人の医者に看とられながら、静かに息をひきとった。同居人はだれも、彼の最後がこれほどせまっていたことを知らなかった。その日の朝、彼は屋根裏部屋からおりてきて宿の主人たちと語っている。アムステルダムから医師の友人シュレルが来ていた。彼はアムステルダム在住のドイツ人で、ライプニッツスピノザの会合の手引をしたのも彼であった。昼食も平常と変わらなかった。午後、医師だけが彼のそばに居残り、同居の人たちは教会へ出かけていった。彼らは教会から帰ってくると、スピノザが三時にこの医者に看とられて死んだことを聞いた。

 

 

(『エチカ』 スピノザ 畠中尚志 訳 解説 岩波文庫)より

 

 スピノザの友人で保護者たる大政治家ヤン・ド・ウィットは虐殺されてオレンジ派が支配的位置を占めており、また『神学・政治論』は「涜神の書」として発売禁止の厄にあったばかりのこととて、『エチカ』の出版は容易でないように見えた。それにもかかわらず、自己の発見した真理を人々に伝えようとする熱意は彼をして、『エチカ』出版のため当時の住所だったハーグからアムステルダムへ旅立たせた。しかし彼の目的はやはり実現しがたかった。彼は同年9月オルデンブルクあての手紙にこのときのありさまを次のように書いている。

「私がそのこと[出版]に携わっている間に、私が神に関する一書を印刷に付していて、その中で神の存在しないことを証明しようとしているという噂がいたるところに拡まりました。そしてこの噂は多くの人の心に入り込みました。この機を捕まえて数人の神学者(おそらくこの噂の張本人たちでしょう)が私をオレンジ公と当局に告発しようとしました。その上私に好意を持っていると疑われている数人の愚かなデカルト主義者たちがその疑いを取り去ろうとして、私の意見や著作をたえず罵倒し、今も罵倒することをやめません。私はこのことを信ずべき二、三の人から聞いたのです。そして神学者たちがいたるところで私の隙を狙っていることもその人々は同時に私に言明してくれたのです。それで私は事件の成り行きを見きわめるまでこの用意された出版を延期しようと決心しました……。しかし事態は日に日に悪いほうに向かっているらしく、私はどうすべきかまったく検討がつきません」(書簡68)

 このようにして『エチカ』はついに彼の生前出版することができなかった。しかしその原稿は他の諸原稿とともに死の直前宿主に預けられてあったので、死後ただちに『エチカ』を含む遺稿集は彼の友人にして出版社たるヤン・リューウェルツに渡され、スピノザの死んだ年すなわち一六七七年の十二月に世の光を見ることができた。この遺稿集には彼のかねての意思に従って彼の名前が明示されなかった。真理は万人の所有であって個人の名前で呼ばれる必要がないという彼の自説に基いたものである。