iwanmayatakaのファイル

つぶやいたこと(https://twitter.com/IwanMayataka)や何かの機会に書いたことの中で、自分の記録用と、他の方にも何かの役に立ちそうな内容をここに置いています。

釈尊の思想 言葉の並べ方と我執

よく釈尊が説いたのは四諦だ空観だと力説してるところを見るけど、彼が対峙して闘ったのは、そういったあらゆる言説を生み出す主体に対する恐怖であって、それがどんな言葉の形をとろうが、彼にとっては大差なかったと思う。要するに「言説を『我がもの』として他者を排除したがる我執」が問題の本質。

形而上学に対する無記の教えは「貴方がその世界観を持っていようがいまいが、他者を大切に思う気持ちを貴方の中に育まなくては、あなたは不幸になる」という現実における嘘偽りない事実であって、四諦や空観の教説も、自己に対する妄執への克服、他者への慈愛を引き起こすための一つの手段。

「業論は本来の仏教ではない」などもよく聞くけど、相手によっては、善行を積めば天に生まれ変わる等と彼自身も説いているし、異なる言説の人間同士が仲良くできるなら、相手がどんな世界観を必要としていようが、そこは大して問題にはならない。本当の彼はダイバダッタも排除しようとしなかった。

この辺は、原始仏典の最古層と言われる『スッタニパータ』第四章に感じられる。彼が疑問と恐怖を感じたのは、多くの人が真実と称して異なる言説をぶつけあっては生死を争っていたこと、世界の構造への驚きというより「何らか客観的世界を構想しては縋り、他者にぶつけあう主体、その妄執」に対する驚愕。

彼の思想はどこまでも身につけるべき行為の問題であって、どんな言葉の並びの問題でもない。中村元が「釈尊は我が無いとは言っていないので、非我論というべきです」「彼の思想には特定の形といったものがない」と主張したこと、あれは批判を受けることも少なくないようだけど、最も上手い表現だと思う。

どんな言説も乗り越えられない問題として、自分の思い通りにならない(自己ではない)対立した他者の言説を抑えることはできない。主体は常に未知数で、自分が否定される恐怖は無限にある。このどうしようもない現実・他者・世界、ここにしっかりと直面して克服することが最も重要な問題だったと考える。




ちなみに「梵我一如的な表現、大我論などは仏教ではない」とかも、よく目にする批判だけど、本質的になりえない戯論的な状況で、いちいち問題にしていることが多いなあと思うときがけっこうある。そういう言葉の並べ方も業論と同様、どう使われて効果を発揮しているかが、本質的なところだと思う。