iwanmayatakaのファイル

つぶやいたこと(https://twitter.com/IwanMayataka)や何かの機会に書いたことの中で、自分の記録用と、他の方にも何かの役に立ちそうな内容をここに置いています。

善悪の基盤としての生命について(トルストイと中村元とアランより)

トルストイ 『人生論』より

 問題は結局“ある人々の善と考えるものをある人々が悪と考えたり、またその真反対であったりする場合に生ずる人々の間の衝突を解決するにはどうしたらいいか?”ということである。

 可能な解答は、なにが悪であるかについての確実な、議論の余地のない尺度を発見することか、あるいは暴力によって悪に抗しないことである。

 第一の方法は、有史以来ずっと試みられてきたが、ご承知のとおり今日まで成功したためしがない。 第二の解決法――普遍的尺度が発見されないかぎり、われわれが悪と思うものに対しても暴力をもって抗しないという方法―これがキリストの提唱したところのものである。

 

中村元 『自己の探求』より

 生命は何のためにあるのか? それを説明するためには、(小前提)生命はAである。(大前提)Aは…のためである。(結論)生命は…のためである。という推論式をとらざるを得ない。ところが生命を問題とする限りにおいて、生命よりも広範囲な外延を持っているAという概念は存在しない。

 生命を生命たらしめる本質的なものは、その概念規定の立言からして逸脱してしまう。そこで言えることは、〈われわれが生きている〉すなわち〈われわれは生命を与えられている〉というのは、われわれにとって原初的な事実である。

 そこでわれわれは〈生きている〉という原初的な事実を見詰めて、それを何ものよりも尊いものとして大切に生きていく。――これがのこされている唯一の道であろう。

 

アラン ジョルジュ・パスカル『アランの哲学』より

 ラニョーは、私に多くの光明をあたえてくれた。 彼は最後には、懐疑論は真だといったのである。 懐疑論は、ひとがこれをどんなに考えても、けっして十分とはいえないものであり、 これを考えぬことによって死んでしまうのは魂なのである。魂は信じやすいものを信じることによって死ぬ。